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徳島 いけるで

 5月13日(土)徳島市近くの上板町での熱中小学校にお招きいただいた。この熱中塾は以前にも紹介したように、地域創生が主たる目的だ。大変忙しくしていたので、羽田からの飛行機に飛び乗ったという感じだった。フライト自体は1時間で、徳島阿波おどり空港到着だ。徳島といえば、なにをおいても阿波おどりだ。空港から車30分ほどで会場に到着したが、会場は上板町の「技の館」という超モダーンな円形の建物で、その会場には100人もの塾生で溢れかえっていた。当日のプログラムは私の地震予知の話と四国大学の有内則子先生の徳島の藍染の話の二本立てだ。南海地震に如何に備えるのかをお話ししたが、熱心に聴いていただき、予想外の反応だった。また、意外に若い方が多かったのもうれしい限りだ。


有内先生は徳島(阿波)藍染めの歴史から始まり、どうして青くなるのかという化学的説明まで、すこぶる興味深かった。産業品として阿波藍がこれほど有名だったとは全く知らなかった。藍染の青色はサッカー日本代表のユニホームの「Japan Blue」として知られている。徳島は、この藍染めの原料となる藍染料の「すくむ(藻)」作りの本場で、その伝統は今も引き継がれているのだ。どうして徳島かは簡単で、大河の吉野川のおかげだ。昔はこの吉野川は台風のたびごとに洪水を繰り返していたのだが、この荒ぶる川により流域には肥沃な土が運ばれ、藍作を可能にしたのだ。しかも、藍の取り入れ時は台風の到来時期の前なのも好都合だ。


 更に、豊臣秀吉の家臣で、愛知出身のあの蜂須賀家政が徳島藩主になった時、阿波藍の隆盛に貢献したのだ。蜂須賀は阿波藍の生産の保護、奨励におおいに力を注ぎ、そのため徳島には藍師、藍商が全国から集結し、大歓楽街まで出来ていたとの事。その頃の名残は藍の名のついた町名や町内に点在する大藍商人の御屋敷からも窺える。江戸元禄時代には、全国的に木綿が多く生産されるようになったこととも相まって、徳島県は藍の作付け面積、生産量とも全国の過半数を占めるに至ったのだ。しかし、その後インド藍が輸入され始め、また明治後期からは化学合成の人造藍が普及し、徳島の藍は衰退の一途をたどった。


有内先生のお話の後、藍染の体験が行われた。染めの回数により、それぞれの色に名前が付いているのをご存知ですか。例えば、4~5回染めると「縹色」(はなだいろと読む)、更に進むと10回程度で「搗色」(かちいろ)となる。「搗色」は勝つに通じる為、武士たちがとりわけ好んだ色のようだ。染める前にビー玉、割りばしなどを使いハンカチにどんな絵柄をいれるかで悪戦苦闘だったが、実に楽しいひと時だった。


 衰退した藍栽培も、伝統工芸品や自然の手作り作品への人気の高まりなどあり、徳島でも昭和50年ごろから郷土の伝統産業として注目され始めている。栽培から藍染めまで一貫して行っているのは徳島だけとのことで、最大のアピールだ。壮大な吉野川沿いをドライブし、上板熱中塾の塾長丸山さん、(株)ジャパンブル―上板の瀬部さんはじめ皆さんと徳島市内の懇親会。おいしい魚料理、ビールでいかに徳島を活性化させるかで話は盛り上がった。また熱中塾の関係者、塾生ともいかに地元を愛しているのかひしひしと伝わってきた。徳島では何とかなることを楽観的に、「いけるで」というそうだ。「徳島 いけるで」だ。

<予知するアンテナから>
日本の文化は粋ですね~